イザミカSSブログ。
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それは春先のことだった。
まだ風が冷たく、花の香りが僅かにけぶるようなそんな気持ちのいい季節。
だけどここはどうにも線香くさい、と臨也は思う。
それはそうだ、お香が炊かれているのだから。当たり前だ。焼香をした人々が啜り泣く声。それを確かに耳で聞いたのに、臨也はその事実がぼんやりと頭の中を拡散して、すり抜けていく感じがした。
この場は、朦朧としている。朦朧としているのは、臨也の周辺だけだろうか。
良くある葬式の風景。
といっても臨也自身は実は、葬式に出席したことなど数えるほどもない。幼い頃に親戚の葬式に出たくらいで、物心ついた後からは、出席などしなかった。死んだ人間などに興味は無かったからだ。葬式など、残った人間たちのために行われるものだ。臨也は残された人間になったこと無いから、出席の必要も感じなかった。
焼香の煙が館内に充満して、それが頭の動きを鈍くさせているのだろうか。
今、暑いのか、寒いのか、それすらもわからない。
淡々と読まれていく低い読経も頭をすり抜ける。まるで催眠術にかかったかのようだ。
写真。動かない表情。溢れるほどの華。啜り泣く人々。
――――なんだこれは。
一体なんなんだ、これは。
写真の中の動かない表情は、しかし、満面の笑みを浮かべていた。それに、僅かに嫌悪を抱く。まるで、アミューズメントパークにいる着ぐるみが浮かべているような、動かない笑顔。何故だろう、違和感がある。気味が悪い。何故かそう思った。
僅かに眉をしかめたが、その表情も長くは続かない。
すぐに臨也の眉間は皺を無くし、ただ目は開かれる。しかし臨也本人は、そのことに気付けないでいた。
ただ、立っていた。
ただ華に囲まれた写真を見つめていた。
ただ、立っていた。
「随分、無防備な顔してるね」
かけられた声に、臨也は緩慢に振り返った。振り向いてようやくそれが岸谷新羅と解った。彼の横にいつもいるはずの存在を探すが、見当たら無かった。気付いた新羅が、軽く笑みを浮かべる。
「流石にヘルメットで式に出る訳にはいかないからね――きっと彼は気にしないよ、そう言ったんだけど、セルティは頑なでね。外で待っているよ。自分の分まで、きちんと別れを告げてきて欲しいと言われた」
なるほど、あのデュラハンの考えそうなことだ、と臨也は思った。池袋で暮らし、人間くさくなった化け物は、目の前の男よりはるかに人間らしい。礼儀を知り、愛情を持ち、嫉妬もし、悲しみも知っていた。顔は無いけれど、彼女はきっと泣いたのだろう。悲しんで、心を痛めて、故人の冥福を祈り、別れを述べたのだろう。
「君はもう、きちんとお別れはしてきたのかい?」
乾いた唇をぺろりと舐めて、臨也は新羅から視線を外し、また写真を見つめた。やはり変わらない笑顔。違和感、違和感。
「……まぁ、いいけどね」
そう言って、新羅はさっさと焼香の列に向かった。泣いてはいない。彼は、セルティほど故人を悼んではいないのかもしれない。けれどやはり人間だから、きっと悲しんだのだろう。故人はセルティと仲も良かったし、新羅ともそれなりに交流はあった。きっと惜しむ心くらいはある。
彼は若かった。若すぎた。きっと葬式に参列した皆がそう思っている。逝くには早すぎた。号泣する両親の悲しみは幾許のものか。子を失った親ほど、痛ましいものはないという。臨也にはもちろん子供などいない。想像は出来ても、臨也にはわからない感覚だ。
両親が泣いているのに、それでも気丈に式をしている、悲しみにくれた両親が目の前にいるのに、彼は笑顔だ。華に囲まれて、華のような笑みを浮かべている。泣いている人間を前に、そんな笑顔を浮かべられる人間じゃなかっただろう?
ああ、全くもって気持ちが悪い。
「……あんたが来るとは、思わなかったな」
固い声が聞こえた。僅かに憎しみのこもった声。誰か一瞬わからなかったが、もう面倒で振り返りすらしなかった。
横にきて、少しだけ金色に染めた髪が視界に入った。横には、少女を連れている。ああ、紀田正臣か、とその事実だけを臨也は心に思った。ぎろりときつい目がこちらに向けられたようだが、臨也の意識は写真に向けられるばかりだった。少女からは、気遣うような視線。けれど、臨也はずっと前を見ていた。
「あんたが原因で死んだとかは、思ってない」
睨みつけていたのに、何故か正臣は、臨也を見てその視線を少しだけ弱めたようだった。声に、何故か気遣いが混じる。彼がこんな声を自分に向けるのは、史上初だ。少しだけ驚いた。彼はきっと、世界で一番臨也のことを憎んでいて、それがとても心地よかったのに。予想外だ。
「……だけど、あんたに会わせるんじゃなかったと、後悔はしてる」
ぽつり。そうこぼして、正臣と少女は焼香の列に並ぶ。そこでようやく、少年の顔がちらりと見えた。泣くのを我慢して、歯を食いしばって。たくさんのことを悔やんでいる顔だ。そして悲しくて悲しくて仕方ない顔。
――何故、どうして、お前が。早すぎる。お前が死ぬくらいなら、いっそ俺が。なぁもう一度目を開けてくれよ。
そんな声が聞こえそうな、痛ましい表情。
悲しくて、悲しくて。
きっと彼は泣くだろう。この場ではまだ我慢するかもしれない。少女と二人きりになった時にでも、声をあげて、泣くだろう。そして彼の名前を呼ぶ。どうして死んじまったんだ、なぁ、どうしてだよ! 簡単に想像ができた。
彼は、とても人間らしい人間だ。臨也の愛すべき人間だから、きっとそうするに違いない。故人の両親と、顔見知りなのだろう。軽く挨拶をし、そこで少年はぽろりと涙をこぼし、それでも両親を励ます言葉を口にしたようだった。
それでも写真の彼の表情は変わらない。何を笑っているんだい。何がおかしいんだ。彼もとても人間らしかった。だから、彼の言動は予測できたものだった。だけど今、臨也にはわからない。
彼が何を思って、笑っているのか。
「こんにちは……」
少女のか細い声。やはり臨也は振り返らない。彼女は、臨也の横に並んだ。綺麗に切りそろえられた髪がちらりと揺れ、眼鏡が少しだけ館内の鈍い光を反射した。そこでようやく、彼女を視界に入れた。制服を着た彼女は、紀田正臣ほど悲痛な表情は浮かべていなかった。けれども、どこか感情の抜けた表情をしていた。この世に、楽しいことがあるなんて、知らない。そんな顔だ。それでも、彼女の精一杯の悲しみなのだと臨也は理解した。罪歌も悲しんでいるのだろうか。己の手で愛する人間を殺せなかったことに、悲しんでいるのかもしれないな――どうでもよくそんなことを考えた。
「あなたも、来たんですね。きっと、彼は喜んでいますよ。……きっと」
彼女がちらりとこちらお見た。杏里は、思いやりをのせた声でそう言った。そしてすぐに焼香の列に並ぶ。きっと丁寧に、彼との別れを告げに行くのだ。泣くだろうか、彼女は。どうだろうな、少し難しいと臨也は思った。彼女は並の人間ではないから、行動予測が難しい。
再び写真を見る。笑顔。これは違和感がないだろうか。やぁ良かったね、愛しい彼女のお出ましだ。そう心の中でからかっても、やはり彼は笑顔だ。臨也は、少しだけ顔を険しくした。そこは、恥ずかしがって照れて、赤い顔をして欲しいところだった。
「なんでてめぇが、ここにいやがるんだよ……」
あぁ? とどすの利いた声で、しかし流石に場をわきまえているのか、平和島静雄は怒鳴らなかったし、自販機も投げてこなかった。もちろん、ここには自販機がないので、そのためかもしれないが。それでも臨也を無視せずに絡んでくるのだから、ご苦労なことだ。
「おい」
視線なんて、向ける必要もないだろう。臨也はただ、彼を見つめていた。しかし苛立ったのだろう静雄に、ぐい、と力強く肩を引かれ、その視線を無理矢理合わせることになってしまった。本当に短気な男だ。場をわきまえているなと思ったのは錯覚だったのか。本当にただの化け物だな、この男は、と臨也はうんざりとした。理性やら何やら、どこに置いてきたんだコイツ。
「お前、……なんて顔してやがる」
顔を合わせた瞬間、静雄は目を少しだけ見開き、ちっと忌々しく舌打ちをした。舌打ちをしたいのは、こちらの方だというのに、むかつくなぁ。いつものバーテン服ではなく、スーツを着た静雄は、少しだけ動きにくそうに見えた。凛々しい眉がぎぎっと真ん中により、その額にはいつものように血管が浮かぶ。やめて欲しいな――こんなところでキレるのは、ほんと。ああ、でもキレてくれたら彼は、笑顔ではなく、恐怖に顔を歪めてくれるだろうか。
またちらりと写真の笑顔に目をやった瞬間、頬に衝撃が走った。
静雄に、殴られたらしい。口の中が切れた。しかし歯は折れていないし、意識もしっかりしている。どうやら相当の手加減をされたようだ。だというのに、臨也はそのままぺしゃりとその場に座り込んでしまった。視線は、床に。座り込んでしまうと、人ごみのせいで、写真は見えなくなってしまった。
「このノミ蟲がッ……!」
しかしすぐさま腕をとられて、無理矢理立たされた。そのまま、焼香の列を無視して、引きずられた。抵抗しようにも、力でこの男にかなう訳が無い。焼香台に向かって、歩かされる。
いい、そんなに近くにいく必要は無いんだ。見える写真も、大きくなってしまうじゃないか。
列に並んでいた人間が、驚いてこちらを見ている。順番は守ろうって、小学校で習うだろうに、この男は本当にまったく。強く腕を引っ張られ、焼香台――彼の、棺桶の近くに立たされた。
「ちゃんと、顔を見ていけ!」
上には、華に囲まれて笑顔の君。違和感だらけの、でも満面の笑みを浮かべた彼が居る。
そして、下には、――華に埋もれて、目を閉じる君。
静かに、目を閉じて。表情を浮かべず。
それは笑顔のように違和感は無かった。けれど、固まっていた。動かない、冷たそう。
眠っているように見える? いや、とてもそうは見えない。血の気は無いし、息もしていない。
――――息も、していない。
当たり前だ。心臓が動いていない。死んでいる。
声が出なかった。ただ、彼の顔を凝視した。息も止めて、見入った。
出来ることなら、この彼を連れて帰りたい。とっさに思ってしまった。だってこの場にいたら、焼かれてしまう。この無表情さえ失われ、違和感だらけの笑顔だけが残される。写真の中で、固まった、動かない表情を浮かべる彼だけしか、この世に残らない。
残らないんだ。
もう彼の生き様を見ることも無い。
傷つけることすら出来ない。泣かせられない、笑わせられない。
それがどういうことか、考えて、臨也が覚えてのは、恐怖だった。人間が良く感じる感情。恐怖。
そういえば、臨也は死ぬのが怖い。彼も怖かっただろうか。どうだろう。わからない、それは想像でしかない。
恐怖の次に、やりきれない感情がこみあげた。腹から、もっと深いところから、こみあげてきた。
この感情が一体なんなのか、臨也は理解していた。でも認めたく無かった。自分にも、こんな感情があったのか、そう思う。
だけど、こみ上げてくるものはどうしても抑えきれなかった。抑えられそうもなかった。
そのせいで、彼の名前すら呼べなかった。
その代わりに、水の粒が一粒だけ、彼の白い頬ではじけた。
隣に立つ静雄が「本当にてめぇは、ノミ蟲野郎だな」と苦く呟く声が、ぼんやりと耳に聞こえた。
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